チャーハンを食べながら思うこと。

2月のある日、お昼ご飯にチャーハンを食べながらこんな事を思った。

幸せと豊かさの可能性とバランス、均一性について。

スプーンですくった、一口分のチャーハンの中に、それぞれの具は同じ比率で入っているのか、と。

人それぞれ、幸せを感じるポイントは違う。お金をかけるポイントも違う。
しかし、そこに一般的なイメージや傾向というのはあるもので、それと自分との差を計る人はわりと多いのだと思う。

肉と卵とネギが、例えばお米100粒の中に、いつも同じ量だけあるのか、とマジマジとそのひとすくいを眺めた。

簡単にいえば、何かしらの基準と自分とを、比べる場合が多いのではないか。
もちろんそこにはたくさんの基準があり、それに付随するイメージもある。


味にムラがないのは、料理をする上で大切なことであり、基本的なことだ。
具材の混ざり具合にも均一性がある方が良いに決まっているが、果たして、100%均一なチャーハンを作れる人はいるのだろうか、と。

私も少なからず、人の目を気にしてきたタイプだと思う。その割りには破天荒な人生だけれど、一応それなりに一般的なもののあり方について考えてみたりするのだ。

高級中華料理店の料理長なら、完璧なチャーハンを作れるだろうか。彼はその作り方を、揺るぎない確信と共に知っているのだろうか。

しかし、もうあれだ。ここまで来ると、もう少し自分らしさを出していく人生もいいのではないかと思う。
私は恐らく変だろう。思考を系統化した場合においての回路の話だ。

私は高級中華料理店で修行をしたことがないので、その真偽はわからないし、これからも確かめる術はないかもしれない。そういう奥義があったとしても、たいていそれは秘伝なのだから。

これまではそう、こう言えば普通っぽいだろうとか、常識的だろうとかそういう視点に縛られていたように思う。私は見た目も中身も地味なのだから、考え方も言動も地味であるべきだ、と。

けれどこれは、確率の話ではない。可能性の話なのだ。

けれどもっと、自分に正直に生きたいと思うようになってきた。
最低限の事さえ気をつけていれば、多少変わり者扱いされても、失うものは何もないじゃないか、と。
私がどうであれ、応援してくれる人はずっと応援してくれるし、離れていく人は自然と離れていくものだ。

100粒の中の可能性。
無限の宇宙かのようなチャーハン。

だからもう少し自由に、固定観念に囚われなくてもいいのかもしれない。
王道コースだけが幸せなわけではないし、私の中の豊かさは、ちょっとかわった位置にあるのかもしれない。
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