ガラス細工

以前、学校でいじめられていた時期がある。そんなに長くはないし、内容も今思えばたいしたことはない。
けれど当時はショックを受けたし、傷ついたし、周りが怖くなった。それまで生きてきた平和な世界は壊れてしまい、恥ずかしさと恐怖にまみれ、人の目が気になった。自分の存在そのものを否定されるような言葉たちは、今もはっきり覚えている。あの時の傷は、もしかしたら今も根強く心の奥に刺さったままなのかもしれない、と思うこともある。

当時、私が学校に行けなくなっていた時、父が学校に電話し担任と話していたことを、何年も経ってから母から聞いた。父は担任に「あの子はああ見えても、心がガラス細工のように繊細なんです。だから、なんとかしてやってください」と電話口で訴えていたのを、母は聞いていたらしい。
私はそのことを聞くまで、父が学校に電話したことなど知らなかった。
その頃は反抗期の只中で、私は父とロクに会話もしてなかったと思う。そして父は、私のことなど理解していないと思い込んでいたし、私のことをそんな風に捉えていたのがあまりにも意外だったので、とても驚いた。
実際、ガラス細工なんていうのは綺麗な例えであって、私はただ単に弱いだけなのだろうけれど、きっとあの電話のお陰で早くいじめが解決し、また学校に行ける様になったのだと、今は思う。

人は、たくさんの荒波に揉まれて、苦い思いも痛い思いもすればするほど、強くなるのだろうか。強くなることは、だんだんと心の感度が鈍くなることだろうか。強い人は、誰かの痛みがわからなくなるのか。様々な苦労をしてきたからこそ優しくなれる人と、自分がされたことを相手にもしてしまう人に、分かれてしまうように思う。いまだにこんなにも脆い私は、何も経験から学んでいないのだろうか。決して平和な人生ではないのに、なぜ私は今も弱いのだろうか。

子供の頃、両親が小樽で買ってくれたビードロを、今も大切にしている。
もう20年も訪れていないあの地で、きらきらと反射し、滑らかに湾曲し、揺らめいていたガラスたち。次に訪れた時には、ガラス細工がどんな風に見えるだろう。落としたらすぐ割れてしまうけれど、両手でそっと包み込めば、その美しさを静かに放ってくれるだろうか。
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