『人魚 』1

ジャズが流れるさびれた酒場。
ところどころ、裂けた布地が繕ってある深紅のビロード張りのソファ。
安い酒の臭い。
ガラスの灰皿。
ジッポのオイル。
甘い煙のシガレット。
私は全身ずぶ濡れで此処に辿り着いたが、この黒くて身体に張り付くワンピースも髪の毛も、もうすっかり乾いてしまった。
灰皿は、2回替えてもらった。
店内には数組の客がいる。みんな小声でひそひそと話している。
誰かが出入りする度、ドアがカランコロンと鳴る。
私の思考の合間に、途切れ途切れジャズが入ってくる。
ロンドンのどんよりとした曇り空さながら、私はひどく疲れていた。

あの夜も、私は今日みたいな黒い服で、1人で酒を飲んでいた。いくら飲んでも酔えない夜だった。その頃そんな夜がずっと続いていたのは、私がはっきりと覚醒していた時期だったからかもしれない。
毎日がつまらなかった。
彼は私をミドリと呼んだ。
何故かと聞いたら、人魚のようだからと言った。ややグリーンを帯びた、薄暗い海のどこかに潜んでいるようで、気怠く微睡む姿が、陰鬱なのに惹きつけられるのだと。
けれどあの夜を境に私は、覚醒の時期から再び虚ろな時期へ入っていった。

私たちはワインを片手に様々な話をした。そのほとんどがとりとめもなく、根拠もない、結論もないような話。
そして私たちは、夜ごと獣を見るようになった。
獣はいつも気づいた時には息を殺して部屋の隅にいた。
幻などではなく確かにそこにいた。
何故私たちがあれ程怯えたのかはわからない。だって、その頃は怖いものなどなかったのだから。
獣の目的がわからなかったから怖かったのか。
いつ消えるかわからなかったからか。
自分の何かが乱されるのではなく、他の何かを乱しているような気がしたからだらうか。
私は、時間にコントロールされているつもりはなかった。それは単なる概念のようにしか思えなかったからだ。
そんなものよりも、目の前にいる獣の方が遥かに怖かった。
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