亡き王女のためのパヴァーヌ

音感に対する見識は幅が広いが、私に少しでもあるとすれば、それは生まれ持った才能ではなく訓練によって身についたものだと思う。
小さな頃、師事していたピアノの先生は音楽学校の講師をしていて、高校生や大学生と同じように私を扱った。特に理論や聴音には厳しく、多くの時間をかけてくださった。
けれどあの頃は、ピアノが嫌で嫌でたまらなかった。特に音楽の道へ行きたいわけでもないのに、なぜ泣きながら習わなくちゃいけないのか。やりたい曲も思ったようにはやらせてもらえず、ちっとも楽しくなかった。何度も辞めたいと思った。
けれど大人になってみると、先生の素晴らしさがよくわかる。プロ意識の高さや教え方、先生ご自身の感性や個性。そして何もかもお見通しだったのかもしれない。練習をサボった時、イヤイヤながら弾いていた時、反抗的だった時、そういう生徒を相手に教えるのは、なかなかやりづらい部分があっただろう。しかしその中でも、私なりの個性を引き出そうと尽力してくださっていたのだろう、と今は思える。
そんな素晴らしい恩師は北海道に。そう遠くないうちに会いに行きたい。

子供の頃は、この曲の魅力がわからなかった。起伏のない単調な曲だと思っていた。
しかしこの歳になるとわかる良さにも気づいた。
私がまたピアノを弾きたくなったのは、何かをアウトプットしたくなったということなのかもしれない。読書や映画鑑賞が好きだが、それはどちらかというとインプットだ。もちろんピアノは趣味の範囲だが、やっと曲を通して個性を表現することの意味がわかってきたのかもしれない。行き場のない自己表現欲を、とりあえず鍵盤にぶつけたいという子供みたいな衝動かもしれない。

たとえ練習してもひとり家で弾くだけで、誰かに聴いてもらう機会は全くないかもしれない。
けれど名前も知らぬ亡き王女のために気持ちを込めて弾いてみたい、そう思った春の午後だった。
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