ねじねじの行方

中学生の頃、好きな人に電話をかける時、受話器から伸びるねじねじの先に相手がいるのだと思って、ときめいた。ねじねじを指に絡ませながら「繋がっている」感覚を味わった。
きっと私よりも若い世代にはコードレスや携帯電話が当たり前で、線の先を辿っていく感覚はあまりないのだろう。

これだけ有線から無線になり、24時間、世界中と簡単に繋がれるようになった便利な昨今。
出会いの場も増え、連絡もコミュニケーションもとりやすくなった。
しかし私たちは、忙しい合間をぬって会おうとする。互いの顔を見ながら食事やお酒を通して楽しさを共有する。
それは何故だろうか。
人には体温があって、その人の放つ雰囲気があって、握手やちょっと肩を叩くだけのスキンシップの中にも、生きている温かさをきっと感じられるのだろう。

このブログの初回(http://saya34363856.hatenablog.com/entry/2013/10/01/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%A0%E5%86%8D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88)、タイトルの意味を説明した。自分の人生や積み重ねを一本の線に例え、様々な人や出来事との関わりを交差点と呼んだ。
この一本の線は直線のイメージだったが、実際はそうではない。蛇行していて、時に縺れ、時に絡まる曲線である。曲がりくねっていて、ねじねじもしている。
私の頭の中は今、非常にねじねじしている。まるで理髪店のポールのように、螺旋を描きとめどなく捻れている。
指に絡ませたねじねじをなぞりながら、人と繋がることと離れることについて考えている。リスクと可能性に挟まれて、面倒なプロセスを踏みながらも、なぜこんなに繋がりたいのか。
重なったと思った途端に離れたり、また近づいたり、それはどちらが悪いでもなく、タイミングと相性の問題なのか。

随分泣いたし、気分転換もした。
それでもたくさんのものを失った気がするし、後悔しているし、申し訳ないと思っている。
f:id:saya34363856:20140320215932j:plain