なんとなく。という感覚

なんとなくという理由では足りない気がして、いつも論理的、科学的、倫理的理由をあれこれ探してしまう。
それは損得勘定で動く世の中に対する、ある意味ではアンチテーゼなのかもしれない。
ビジネスや集団生活の中においては、一般的で常識的な理由も有効だろう。
けれど普段ひとは、なんとなくという感覚で動いていることが多い気がする。
なんとなく行きたい場所。
なんとなく食べたい物。
なんとなく会いたい人。
なんとなく読みたい本。
こうすると安心できるとか、この時は楽しい、そういう感覚は私たちが生きているからこそ感じるもので、あなどれない本能の部分でもあるかもしれない。

しかし、自分の生活スタイルが完成されていればいるほど、新しいものを取り入れるには決意が必要だ。引越し、転職、恋愛や結婚など、人生が変わるような変化には、結局あれこれ理由をつけて避けてみたり先延ばしにしたりしてしまう。
だがそんな時こそ、なんとなくの感覚に従うのが最終的には後悔しない生き方なのかもしれない、と思う。

昔。友人が亡くなった。
その時から私は、明日大切な人が亡くなっても後悔しないような生き方をしよう、と思った。
今伝えられるなら、今伝える。
今会えるなら、今会う。
けれど大人になると、明日の準備のための今日だったり、躊躇って決断しないまま過ぎていく今日だったりが出てくる。

なんとなくの川の流れを一生懸命読もうとしていたんだ。誰かのアドバイスや、気持ちや、タイミングを得て、背中を押してもらいたかったんだ。どうしたらいいかわからなくて、1人では決められないこともあって、だから、それでいいんだよ、と。
要は、後悔したくないんだ。
根拠のない感覚でも、それに従ってみたいんだ。
こんなことを考えながらもなんとなくの私の気持ちは、どこかへ前進していると実感したい。
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